私は、いつからこんなつまらない人間になったのだろう。
少し前に話題になっていた、コレ↓
「ゆきこさんの家からえきまで30分かかります。8時50分にえきにつくには、家を何時何分に出るとよいですか?りゆうもかんがえましょう」(小学校2年生)
という問題。
「8時15分に出るとよい」と答え、
その理由が、
「8時20分だとぎりぎりであせるとあぶないから」と答えた某小学生。
「人としては正解!」「花マルあげたい!」など、そのかわいらしい解答が話題になっていた。
興味津々、このニュースの話は全くせずに、子ども達に同じ問題を出してみた。
長男(小4)
「答え: 8時20分」
「理由: この子は多分9時に用事があるから、8時50分に着きたいんだと思う。だから、家を出るのは、8時20分で良い。」
次男(まさに小学校2年生!)
「答え: 8時10分ごろに出ればいいと思う。」
「理由: 信号もあるし、友達とかにあって、ゆっくり歩いたりしたら遅れるから、念のため8時10分頃に出る。」
どっちもスゴイ!
妙に感動してしまった。
私は、この問題を見た時、
「答え:8時20分。理由:8時50分ー30分=8時20分だから。」
としか考えられなかったから。
......なんかこの違い、頭の柔軟性とでも言おうか、素直さとでも言おうかに、愕然としてしまったのだ。
思い起こせば私、小学生の頃、国語が大の苦手だった。
例えば、
文中㋐「B男の話を聞いたA子は、うつむきながら、「ありがとう」と言った」とありますが、その時のA子の気持ちを表すものとして、適切なものを次の①~④の中からひとつ選びなさい。
① 悲しい
② 寂しい
③ はずかしい
④ 嬉しい
という問いがあったとして、めちゃくちゃ迷って、見事に外すというパターンが多かった。
だって、私にとっては、「読みようによってはこうとも取れる、そもそも答えはひとつでなくてもいいんじゃない?」と思うことが多くて。
それが、中学、高校と上がっていくうちに、皆と同じ答えを導き出せるようになり、いまや読書をしても、ドラマや映画を見ても、皆と同じような感想を持ったり、同じ場面で感動したりできるようになった。
それがいいことなのか、悪いことなのか......分からない。
「生きやすくなった」と言えば、良かったことかもしれない。
「つまらない人間になった」と言えば、それもしかり。
このニュース、いくつかのサイトで紹介されていたが、某サイトの読者コメントで、「何故「理由」を書きこめるような罫線があるのでしょうか」というのがあった。
実は、カナダでは解答の理由を求められることが、非常に多い。
「どう考えても、5-3=2としか書けないでしょ。理由って、どう書けばいいのよ?!」というような、明らかに分かり切った問題ですら、言葉や絵を使って、その理由を説明しなければならない。
子どもから、「ママ~、これ、どうやって説明したらいいの?」と聞かれることもあり、内心、「メンドクサイ!」と思っていた。
しかし、今回のこのニュースを読んで、この子が、「8時15分」と解答したことに対して、単純に✖と付けられなくて良かったなと思ったのだ。
理由を説明できたからこそ、否定されずに済んだ。
理由を説明できたからこそ、むしろこの子の考え方が大きく肯定された。
世の中、答えの出ないことの方が多い。
いろんな考え方があるからこそ、この世は楽しい。
新庄剛志さん、47歳で現役復帰を宣言。
涙が出た。
いいじゃないか。
「新庄らしい」というコメントが目立つ。
皆と同じひとつの答えを出すことより、皆と違う「らしさ」を見つけてほしい。
学校教育の中で忘れていた、子どもへの希望。
解答へと導いた理由、 きっと大切なのはこっちの方だ。