まれにいいこと

小さないいこと探しながら、今日もなんとか暮らしています。

どこまで繊細になればいいのか問題

投稿から2日もたてば、アクセス数は限りなくゼロになる私のブログ。

ところが、前回の投稿から1週間経過しても、毎日結構なアクセス数が。

(いまさら!)調べてみたら、どうやらスマートニュースなるものに掲載されたらしい(多分...)。

しかも、スマートニュース?すら知らなかった私、実はこれで2回目らしい。ありがたや。。。

 

それにしても、「スマニュー砲」とか「バズる」とか、日本語遊びって面白い。

次々と出てくる新語や造語。こういう言葉遊び?、日本人は本当に上手だなと思う。

ただ、海外生活の長い私、おしゃれに使いこなせないどころか、使い方を間違えてもいけないので、結局使えず…(´;ω;`)悲すぃ…

 

 

日本語といえば、子ども達の日本語学習の必需品、教科書一式が、今年も在カナダ日本国大使館から送られてきた。

国語の教科書をパラパラめくっていたら、こんなページを見つけて。
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ーーー引用元:光村図書 小4国語(上)かがやき P.38~39

 

「話す言葉は同じでも、話し方によって、相手の受け止め方が異なる」ということを示したものだ。

意図するところは分かるのだが、私が考えてしまったのは、「これを教える必要があるか?」ということ(しかも、小学校4年生で)。

マナーを知るため?

他人に対する配慮を学ぶため?

私のような超ネガティブ人間は、こういうのを読むと余計に気になり、疲れる。人と付き合うことが。

人の目や態度、言葉遣いを気にして、自分も気を遣いながら人と付き合うこと。

 あれ? 私、変なこと言ったかな?

 あれ? なんか今、怒らせた?

 あれ? もしかして私、嫌われてる?

こういう卑屈な感情の素地を作ることにならないかなぁと、考えてしまった。

話し方も受け取り方も「個性」では、ダメなのだろうか? 

 

 

考えてみれば、良かれと思って使っていた「頑張れ」という言葉、時に人を追い詰めるということで、使う機会が激減した。

「かわいそう」などの言葉もしかり。

発言する側に悪意がなくても(むしろ善意で使われていることも多いように思うが)、受け手が傷つくという言葉、どうやら多いらしいと教えられる昨今。

学校では、あだ名やニックネームの類は禁止され、友達間でも「さん」付けで呼び合うとか。

 

たしかに、いかなる状況においても、配慮は必要。

いじめにつながる可能性のあるものを、事前に取り除くことも必要だろう。

 

でも、それが行き過ぎて、自由な発言や、表現の多様性を奪わないか、より傷つきやすい子供たちを生み出す結果にならないか、心配している。

私がそうだから、そう思うだけかもしれないけれど。

「これは言ってはダメ」ということが増えていくと、どう話してよいのか分からなくなる。

どう受け取られるか分からないから、話すのをあきらめてしまうこともある。

また、他人からそうした発言をされた時に、その人には深い意図がなかったかもしれないのに、「もしかして、この人は私を嫌っているのかな」と深読みしてしまう。

 

 

最近のニュースを見て、言葉も人間も、どこまで繊細になればいいのか、大きな問題になってきているなと思った。

そして、それ以前に、個性や多様性を認める社会を作っていくことのほうが、より建設的な気がしないでもない。